未来社会の設計図をほしがる青写真待望論者にたいして、マルクスがのべた言葉が、今日の私たちにとってもきわめて教訓的であります。マルクスは、晩年のある手紙のなかで、「未来の革命の行動綱領」を純粋に理づめで先どりしようとすると、それは必然的に空想的なものになるし、そういうことをやることは「現代の闘争をそらすものでしかない」という名言をのべたのです。
直接的な、所与の事情とかかわりをもつ ものでないかぎり、すべて無益であるばかりでなく、有害 です。それらは、つねに、無数に繰り返される一般的な陳腐なおしゃべりに帰するでしょう。
未来の革命の行動綱領の純理的な、必然的に空想的な先取りは、現代の闘争をそらすものでしかありません。(35巻P132)
知的労働と肉体労働の差別の問題というのは、階級社会における支配階級と支配される階級の対立にもむすびついた問題であり、また人間の能力の全面的な発達をさまたげる問題として、マルクス、エンゲルスがとりわけ重視し、その差別の解消を「真に自由な人間関係の社会」――共産主義社会の成立の大前提ともみなした問題です。マルクス、エンゲルスの見解によりますと、これまでの社会では、一方に社会の共同事務、行政とか経済管理、あるいは科学や芸術などの問題に専門的にたずさわって、生産労働にはいっさいくわわらない少数の知的な働き手がいる、他方には、もっぱら生産労働をひきうけて知的な労働からはしめだされている広範な勤労大衆がいる、共産主義社会にいたれば、こういう状態が過去のものとなって、社会を構成するすべての人びとが、社会をささえる生産労働の一翼を自分の能力に応じてひきうけると同時に、さまざまな肉体的、精神的な能力を思いのままに発揮できる条件が保障される、これが、社会のいわば当然の準則、きまりとなってこそ、ほんとうに平等な人間関係の社会が生まれる、こういう展望をもったのであります。
しかし、こうした状態が社会の全体にわたって実現されるためには、少なくとも二つの条件が必要となります。
一つは、人民全体の知的水準の抜本的な向上をかちとる問題です。マルクス、エンゲルスが活動した当時には、『資本論』に生なましく叙述されているように、労働者階級の子どもたちには、小学校教育さえまともな形では保障されず、よりすすんだ高等教育の機会に恵まれるのは、支配階級か、それに近い立場のきわめて少数の人びとにすぎませんでした。この状態を根本的に改善し、すべての人民が知的活動に参加できる条件をととのえること自体、当時は、たいへんな社会的な努力と期間が必要になると予想されたのであります。
もう一つの条件は、労働時間の根本的な短縮という問題です。マルクスは、物質的な生産の領域でも、知的な労働と肉体労働の境目が固定的なものではなくなることを想定していました。しかし、より重要な問題は、社会をささえるのに必要な、いわば義務的な生産活動――これには当然すべての人間が従事するが、その枠の外で、各人が知的な活動やスポーツなどに自由に参加し、自分のもっているあらゆる能力を発展させる機会と条件をつくりだす、というところにありました。マルクスは、それには労働日の短縮、社会的義務をはたすのに必要な労働時間の根本的短縮が必要条件だということを、『資本論』でも強調しています。この面でも、当時のヨーロッパは、労働者の長期にわたる闘争とその圧力のもとに十時間労働法がようやくかちとられはじめたところで、生産労働の領域の外で勤労者の自由な活動を保障できるような時間短縮は、はるかに遠いかなたの展望でしかありませんでした。
こういう歴史的な事情のもとに、マルクスは、「知的労働と肉体労働の差別の解消」の問題は、社会主義社会ではまだ実現困難だと考え、共産主義社会の高い段階にいたってはじめて解決できる課題として、これを位置づけたのであります。
しかし、それから百年余をへた今日では、問題解決の前提となる社会的条件には、根本的な変化が起こっています。
まず教育水準の問題でいえば、現在の日本では九年間の義務教育が法律で定められていますが、さらに中学卒業者の九五%が高校に進学しています。つまり、十二年制の普通教育が国民大多数の共通のものになっているということです。知的労働と肉体労働の差別を固定化する条件は、この面では大きく失われつつあるといってよいのであります。「提案説明」で指摘したように、現場の生産労働自体についても、知的労働と肉体労働の区別や境目は、日ごとに流動的なものになりつつあります。
もう一つの面、労働時間の問題はどうか。日本では、世界でも異例の長時間労働が支配的ですが、国際的には、十九世紀の十時間労働制はおろか、二十世紀のはじめにソ連が先陣をきった八時間労働制も、いまでは過去のものになりつつあって、すすんだところでは、拘束週三十数時間といった時間短縮の制度化が問題になっています。それは、抜本的な時間短縮を可能にするだけの生産力の発展が現に存在しているということであり、搾取を生産活動の目的としない合理的な社会体制が実現したら、この分野でも画期的な新しい条件をひらきうるということをしめしているのです。
第一。「生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす」(第一五節の三つ目の段落)
この文章で注意してほしいのは、一般的な生活の保障、向上の問題とあわせて、人間の全面的な発達を保障することを、未来社会の非常に大事な特徴としていることです。社会を物質的にささえる生産活動では、人間は分業の体制で何らかの限られた分野の仕事に従事することになります。しかし、労働以外の時間は、各人が自由に使える時間ですから、時間短縮でその時間が十分に保障されるならば、そこを活用して、自分のもっているあらゆる分野の能力を発達させ、人間として生きがいある生活を送ることができます。この人間の全面的発達ということは、社会主義・共産主義の理念の重要な柱をなす問題でした。労働時間の短縮にも、こういう意義づけが与えられてきたのですが、人間の発展のこういう大道が開かれる、というのが、大事な点です。
第二。「生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の成員の物質的精神的な生活の発展に移」す。つまり、もうけのための生産から、社会と社会の成員の生活の発展のための生産にきりかわる、ということです。これによって、「経済の計画的な運営」が可能になり、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大を引き起こさないような、有効な規制ができるようになる、ということです(第一五節の四つ目の段落)。
第三。資本主義経済というのは、利潤第一主義ですから、これは本質的に不経済なものです。一方では、利潤第一主義につきものの浪費が、あらゆる分野に現れます。日本の各地に無残な姿をさらしているむだな大型公共事業の残がいは、資本主義的浪費の典型の一つでしょう。また他方では、くりかえしの不況で、せっかく生産手段もあれば労働力もありながら、それが遊休状態におかれ無活動に放置されるということも、日常の現象になっています。そういう浪費や遊休の土台がなくなりますから、本来なら、その点だけからいっても、改定案でいうように、「人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展」が、社会主義・共産主義の社会の特徴になるはずです。